2015年10月20日火曜日

インドに流れる未来への思想

昨日は10月18日、日曜日、僕が住むこの茨城県石岡市の八郷盆地では、「八豊祭」という東京から移住し、今では農業に従事する若者たちが、秋の収穫を祝うとともに、「都市を離れて、田舎に住むこと」の重要性を訴えて、例年のようにお祭りが行われた。この地域に昔から住む農家の人たちとも協力して、農作業や何でも作ることの楽しさを味わうとともに、舞台での音楽や各種各様な食べ物が披露された。
僕は、このお祭りの中で、二本の映画を見た。それは、現代のインドの思想家「ヴァンダナ・シヴァ(1952-)」と「サティッシュ・クマール(1936-)」両氏のスピーチを映像化したものである。この二人は、明らかにインド思想の伝統を受け継ぎ、仏陀の「すべては、つながっている」という言葉やマハトマ・ガンジー(1869-1948)の非暴力思想を受け継いでおり、とりわけヴァンダナ・シヴァは、自分の農場であるナヴダーニャ農場を展開しながら、地球未来への実践と縦横無尽な思想を展開している。彼女は、もともとは物理学者で、長く放射能の危険性を訴えてきたが、今では遺伝子組み換え食品の危険性や、それに対抗するための「種」の保存運動に邁進している。
この二人の思想は、ヨーロッパ社会からは決して生まれない思想である。決して「高み」に登るのではなく、「同じ地平」、同じ地球の大地に立とうとしている。彼らの言葉の中に学ぶべき言葉は多いが、一つだけあえて抽出すれば、それは「Earth Democracy(地球民主主義)」という言葉である。人間中心社会ではなく、地球上のすべての「生き物」が互いに暴力的に生きることを競うのではなく、「話し合い」をもって、あるいは互いに「思いやり」をもって地球社会を作らねばならないという主張である。さもなくば、地球崩壊は目前に迫っているというほどに、その訴えは真摯なものである。
僕は、この二つの映画を見て感じたことは、もうすでに地球未来に対する思想的展望は明らかになったということである。これ以上、付け加えることもなければ、目指すべき方向とそのイメージは誰でも理解できるところまで発展してきたと思う。しかし、何より心配なのは、この思想をどのように具体化していくかである。この点については、クマール氏は、日常生活の中での「食べる」こと、「眠る」こと、「歩く」ことを実践すれば、その未来に到達できるという。また、ヴァンダナ・シヴァは「都会を離れて、田舎に行くこと」だと主張する。しかし、多くのこの映画会の参加者が映画が終わった後「それでも、とても難しい」と感想を述べたように、地球危機を乗り越え、今後、人類が生き延びていけるかどうかは至難の業だと思う。しかし、やはり少しでも前に進むしかない。すべての人が、自覚
をもって少しでも前に進む努力をしなければならないと思う。

僕は、ヴァンダナ・シヴァが言うように、モノの地球化(Globalization)ではなく、地域化(Localization)を目指すとともに、心の地球化(Globalization)、つまり偏狭な「日本」にとらわれることなく、広く心を世界に開いて地球市民として生きることこそ大切と思う。「地域自治」と「地域自給」を展開しながら、地域間相互の協力(Inter-localization)を目指さなければならないと改めて確信したのである。

2015年5月26日火曜日

適正技術・代替技術・中間技術について


われわれは、生きながらにして地球を殺そうとしている。先回の投稿で述べた、この絶対的な「矛盾」とも言うべき現代にあって、どう生きるか、あるいはこの「矛盾」をどう克服するかについて今日は考えてみたい。誰でもが「自分も生き、地球も救いたい」と望んでいる。そこに登場したのが、1973年に刊行されたドイツ生まれのイギリス経済学者「エルンスト・フリードリヒ・シューマッハー(Ernst Friedrich Schumacher, 1911-1977)」の著「スモール・イズ・ビューティフル」である。彼は、環境にやさしい伝統的地域技術を「1」とし、環境破壊的近代技術を「1000」として、その中間たる「100」の技術、すなわち「中間技術(Intermediate Technology)」をこれからの地球時代、推進していかねばならないと説いたのである。
これに触発されて、翌年の1974年にはデイビッド・ディクソンの「代替技術(Alternative Technology)」、そして1976年にはニコラス・ジェキエらの「適正技術(Appropriate Technology)」が出版され、地球とわれわれの存在との矛盾を解決しようとする「技術論」が提唱された。技術論と言っても、この世の事象を多面的に捉えて政治的、経済的、社会的、文化的な思考を重ねて、永続的な社会を作り出そうとする思想である。日本においては、この「中間技術」、「代替技術」、「適正技術」という三つの言葉の内、「適正技術」という言葉が一番多く使われているが、この三つの言葉は少しずつその力点が違うとはいえ、ほぼ同じものと解釈していいと思う。
それでは、その内容とは何か。「適正技術」は、まず、地球を壊さないように環境への負荷を出来るだけ少なくしようとする。地域の資源を大切にして、繰り返して使う努力をする。次に、それぞれの地域にはその地域特有の社会組織があるので、その社会組織が新しい技術の導入によって混乱に陥らないよう時間をかけて「社会と技術」とのバランスある成長を尊重する。第三に、出来る限りの市民参加、自発的市民参加を目指す。人の命令によって自分の役割を決めるのではなく、市民の自発的創意工夫によって社会を作り上げていく。恐らく、この三つが、適正技術の基本的な性格であり、具体的にはあらゆる分野において地球への負荷を少なくしようとする試みがなされている。自然エネルギー利用、有機農業、東洋医学、環境建築、都市と農村の共存を模索する田園都市構想、資本の移動によって巧みに法の網をすり抜けようとする多国籍企業に対して課税していくドービン税など、数多くのアイディアがすでに考案され、その大規模な実施が期待されている。

 
しかし、これがうまくいかないのだ。これだけのアイディアが目の前にあるのに、共存より競争、いうなれば社会的注目を浴びることなく、「大資本」に群がる構造が際限なく繰り返えされているのだ。環境破壊が進み、格差が高じて「戦争」になっても、人々は地球を大事にするより破壊への道を進む。一つの例を紹介したい。これはずっと前に一回紹介したと思うが、ある日僕はアフリカ行きの飛行機に乗ったら、隣にウガンダ人と乗り合わせた。彼は、「日本でリヤカーを買ったのですよ、農業をやっているお母さんがどんなに喜ぶか」とうれしそうに話す。未だ農業が中心産業であるウガンダの農家一軒一軒にリヤカーを贈呈したらどんなに喜ばれるかと想像がつく。しかし、日本政府は農業援助と称して「トラック」一台を贈呈するのだ。すると、それまで貧しいとはいえ、皆それなりに仲良くやっていた村社会は、トラック一台をどう使うかで「もめ事」になり、伝統的な村の社会組織が壊れていく。日本政府はこのことが分かっていながら、日本の産業育成と称して、リヤカーではなくトラックを贈る。これが、適正技術とそれを支える村社会を破壊する典型的な例である。このようにして、適正技術ではなく巨大技術が優先的に進行していくのだ。
つまり、こうすればいいと分かっていながら、より儲けたいという「強欲主義」が世を破滅に追い込んでいる。資本主義社会とは、そうゆう社会なのだ。だから、なにもすることができず、ただ死にゆくものを供養するような状況に追い込まれるのだ。
それでも、僕らとしては適正技術をはじめとして、環境と共存できる具体的な方法を推し進めるべく努力しなければいけないと思う。写真は、典型的な適正技術「フィリピン・コルディリェーラの棚田群」






2015年1月18日日曜日



 空間理解を通して「地球未来」を考える    岩崎 駿介

1:人生の遍歴を通して、「現代世界」を知る
私は、われわれの社会が非常に厳しい状況に直面していることを、一人の日本人として非常に危惧しております。明治学院大学、ヘボン式のローマ字で知られているヘボン博士によって1863年に創立され、今年でちょうど150年です。私は、そのちょうど中間である1937年に生まれました。明治学院大学のちょうど半分の人生を生きたことになります。この明治学院大学の建学の精神的支柱であるキリスト教、すなわちキリストは、今から2013年前に生誕されたわけです。150年というのは、2000年を割りますと、ほぼ13から14倍。すなわち、明治学院大学が14回生きれば、キリストの時代に到達するという時間的なスケールを持ちます。日本に初めてキリスト教の布教をしたのは、1549年のフランシスコ・デ・ザビエルです。
 さまざまな視点から物事を視ることができますが、今回は「空間」からアプローチしたいと思います。「空間」というのは、環境と言ってもいいし、私たちを包む果てしない空間、宇宙にまで到達する膨大な空間も意味します。この「空間」をどのように捉えるかは、一つの文化理解の方法です。これが、タイトルに「空間を解き明かして」を付した理由です。
 私たちは今、内憂外患といいますか、心の中の悩みも多いと同時に、私たちを取り巻く外的な環境も非常に危機的な状態に陥っています。内的な環境というのは、孤独、断絶、自殺、殺人。そしてテロも、いうなれば心の病によって生まれる社会問題です。また、外的な環境というのは、原発事故や温暖化、森林破壊、土壌流出、そして各種の汚染など、たとえわれわれ自身が精神的・肉体的に健康であっても、外的な環境が刻一刻と痛めつけられていく問題です。
 私が大学を卒業した1963年から今年2013年まで、ちょうど50年です。明治学院大学が生まれてから150年のちょうど三分の一になりうます。半世紀、私は社会人として生きてきたわけです。私は、大学で建築を専攻しましたが、卒業後、建築から都市へと視野を広げて、アジアの都市、とりわけアジアの大都市のスラム問題の解決に携わりました。しかし、スラムの背後に農村問題を感じ、今度は農村の自立を支援する仕事にかかわりました。しかし、農村に行ってみたら、今度は農村に水がないと気づいて、水源たる森林問題に至り、ついには森林から地球へと、50年かけまして問題から問題へと巡り歩き、世界を遍歴しました。
 それでは最初に、私の人生の遍歴を通して、現代世界の問題点について触れたいと思います。私が東京藝術大学という上野にある美術学校の建築科専攻の二年性の時がちょうど1960年、「日米安保条約」の締結をめぐって毎日、国会周辺でデモが繰り広げられるという国民を二分する大きな出来事がありました。日米安保条約は、現在に至るまで日本の進路を決定づけた極めて重要な条約ですが、私は学校そっちのけで毎日、デモに参加し、ほとんど勉強はしませんでした。
勉強はしなかったけど、小さいときから物をつくるのが好きでしたので、卒業した以後は建築設計を仕事にすることに喜びを感じました。しかし、27歳のある日、新興独立国であるガーナの初代大統領クワメ・エンクルマKwame Nkrumah1909-1972年)氏の本を読み、新興独立国に非常に興味を持ちました。何のつてもなかったのですが、ある日、赤坂にあったガーナ大使館を訪ねて、「あなたの国で働きたいのですが」といきなり申し出ました。そのときの参事官というガーナ大使館の担当官が、「珍しいやつが来た」と思ったのでしょう、非常に親切にしてくれまして、ガーナに行くことができました。
 ガーナ国立大学の建築科の講師ということで、2年ちょっとガーナに滞在しました。ガーナ大使館に行った時、お付き合いしている女性がいましたが、彼女にガーナに行くことになったことを伝えると、「私も行きたいわ」と言うのです。私は、今から世界に飛び出すから、君は連れていけないと言ったのですが、「それじゃあ、私もガーナ大使館へ行ってみるわ」と言って、独りで話をつけてきました。そこで、やむなく結婚して、二人でガーナに行ったのです。
 ガーナは、ほぼ赤道直下、北緯5度です。やはりその地に即した家といいますか、実に見事な造形の家々を見ることができました。バオバブの木というのが北部地方にはたくさん生えております。暑いので部屋の入り口は、這って入るほどに小さくして、外気を遮断しています。彼らの生活には、ある種のゆとりも感じて、世界の果てと言われたアフリカでも、人々は創意工夫をしながら生きているのだと実感しました。
 しかし同時に、奴隷制、そして植民地支配がどれほど悲しい歴史であったかを、出会ったガーナ人の心の奥をのぞいて感じることが出来ました。イギリスを中心とする三角貿易によって、少なくとも500万人がアフリカ大陸からアメリカ大陸に連れ去られたと、多くの文献に記されています。500万人を連れていくためには、少なくとも2000万人が、捕らえられる過程で殺されたか、途中の船で死んだか、いずれにしろ大変な数の黒人が殺されたという歴史を見ることができます。
 2年ほどガーナで暮らしたのですが、ガーナの大学の教師というのは、建築関係の学部だけで40人ぐらいいて、そのうち2人だけしかガーナ人がいません。東洋人は私一人です。したがって、給料はアメリカ、イギリスなどの給与水準と同じで、私が大学を卒業した時に日本で頂いた給料は15000円でしたが、ガーナへ赴任するとなんと19万円という破格の給料を2年間いただき、結局400万ほどの貯金ができました。そこで、もう少し見聞を深めるために、これをもとにアメリカの大学に行きました。その後、ボストン市役所にも勤め、アメリカ社会というものはどういうものか、興味津々の毎日でした。
 私は建築・都市計画が専門ですので、いろいろな計画に携わりました。ボストン市役所でも働きましたが、そこで感じたのは、職員が皆「地域自治」の精神に満ち、自分の街は自分たちで作るのだという気概にあふれていました。皆さんも役所というと、何か国の代弁者、出先機関といった印象を持っていると思いますが、アメリカでは、どの自治体も国の代弁者ではありません。自分たちの手で町をつくっていくという「自治」の精神に満ち、これは日本では経験できず、私にとってはとても大きな教訓でした。
 しかし同時に、黒人街の再開発計画にも参加をしたのですが、同僚の若き黒人いわく、「私たちアメリカにいる黒人がもっと豊かになるには、私らの本当の故郷、つまりアフリカの黒人からもっと搾取することによって、それは初めて可能なのだ」という言葉を聞き、国境を越えた人々の深いつながりというものを感じました。
 1968年から70年にかけて、ハーバード大学デザイン大学院に留学していたのですが、その当時はベトナム戦争の真っただ中で、また黒人の公民権運動なども盛んで、キング牧師の暗殺などがあり、アメリカ国内の深刻な対立を見ることができました。そのような中で、都市計画を仕事としていますと、黒人と白人の対立が町の様相にも如実に表れ、この対立をしっかり理解しないと都市計画もできないと感じるようになり、結局、アメリカを去り、日本に帰ろうと決心したのです。自分の技術を切り売りするのではなく、社会との密接な関係の中で、自分の立ち位置を定める必要があると感じたのです。
 その時、ちょうど横浜市長・飛鳥田一雄氏の言葉「地方をもって、国家を包囲する」という言葉を知り、それに引かれて横浜市を訪ね、結局、横浜市の職員になり、そこで9年間働きました。私にとっては何よりも「地域自治」というものを学ぶ機会となったのです。 飛鳥田市長は、職員全員に「君の好きなようにやれ、もし何か問題が起これば、僕が責任を負うから」と職員を励まし、国の命令に従う行政ではなく、自治の精神に満ちた政策を実行したのです。私も勇気をもらいましたし、彼はいうなれば職員すべてを信頼して、自治を盛り上げようとしていたのです。
 私も飛鳥田氏に励まされて、たくさん仕事をしました。作りたかったのは「歩行者が安全で気持ちよく歩ける街」で、公園、歩行者専用道、広場、学校、住宅団地などをたくさん作りました。ちょうど高度成長期が始まる前でしたが、産業用の車優先か人優先かという時代で、多くの困難はありましたが、有意義な9年間を過ごしました。しかし、飛鳥田さんが市長を辞めることになったので横浜市に興味を失い、それまでなんとなく気にしていたアジアで働くことになりました。その時も、外務省にいきなり行って「国連の職員になりたいのですが・・・」と申し出て結局、国連のアジアにおける地域事務所の一つで、タイのバンコクにある「アジア太平洋経済社会委員会(The United Nations, Economic and Social Commission for Asia and the Pacific)のスラム課長として働くことになりました。アジア各国の役人を招いて専門家会議を開き、スラム改善をどうやって行くかを、互いに情報交換するのが仕事です。
 アジア・アフリカ、そして中南米にも、たくさんのスラムがあります。大都市の20%から30%の住民がスラムに住んでいます。しかし、スラムにも住めないさらに貧しい人たちは、路上に住み、彼らは一般に Pavement Dwellers、路上生活者と呼ばれています。彼らにとって深刻なのは、便所がないこと、そして安心して飲める水がないことですが、これをどうやって解決するかも、この専門家会議の重要なテーマです。
しかし、これらの問題はいきなり横浜市から飛んでいった私としては、あまりにも大きな問題なので、始めどう対処すべきか分からず、その現実の厳しさにただ呆然とするだけでした。
 スラムに住んでいる人の一例を紹介しますと、スラムに住むある老夫婦は、昔ガンジス川流域に住む農夫でしたが、温暖化の影響で洪水にあって農地を失い、やむなく都会に出てスラムに住むようになったのです。不幸なことにご主人は何故か目を患って盲目になり、奥さんの手を取って日なが一日、街を歩いて乞食をやって生計を立てています。
このように都市のスラムの背後には、農村の問題があるのです。農村の問題、つまり背後の森林破壊や内戦など農村の破壊によって、都市のスラムが膨張し、際限のない都市への圧力がかかって問題解決を難しくしています。
しかし、私は国連職員といっても、これはあくまで役人ですから、スラム改善の現場に立ち会うということもなく、やはり国際会議に国際会議を重ねるという仕事だったので、もっと現場に触れたいと思い、国連職員をやりながらNGO活動にも参加するようになりました。それは、ちょうどそのころ住んでいたタイの隣国であるカンボジアからたくさんの難民が流出し、それを助けようとしてできたNGO「日本国際ボランティアセンター(JVC)」の活動に、参加したのです。この団体は、難民問題から出発しましたが、いかなる国の農民もそれぞれの地で安心して住めるよう、有機農業の普及、安全な水の確保、学校や病院の建設など、途上国の人たちの全般的な生活改善にもかかわるようになって行きました。
私自身は、その後、タイで一緒に住んでいた息子たちも大きくなり、日本語での教育を受けるべきと考えて日本に帰国し、筑波大学の教員になりましたが、このNGO活動は、その後も長く続けてきました。

2:NGO活動を展開
それでは、そのNGO活動について少しお話ししたいと思います。スラムの背後に農村があると気付いて以後、農村にひんぱんに出掛けるようになりました。あるとき、NGO活動の一環として、タイ語の出来る女房と一緒にタイ北部の農村に行きました。チェンマイからもっと奥、ラオスに近い農村です。私たちは、3年ほどタイに住んでいましたので、妻はタイ語ができます。その晩、村の中でも比較的裕福な民家に泊めていただき、翌朝「裏山に住む山岳民に、会いに行こう」ということで、トラックを改造した民営バスに乗って山に入って行きました。走り出してすぐ気がついたのですが、山また山が焼かれているのです。約30分くらい走って山岳民の部落につき、すぐその部落の村長に会って「なぜ、あなた達は、森を焼くのですか?」と訪ねました。すると「いや、私たちではありません。森とともに生活している私たちは、決して森を壊しません。焼いているのは、昨晩あなたたちが泊まった平地に住む人たちです」というのです。
平地に住む人、つまり農業を営む農民の人たちですが、そこにはすでに貨幣経済が深く浸透して、町や都市の資本と一緒になって、トウモロコシを植えるために山を焼いていたのです。しかし、トウモロコシをタイ人が、そんなにたくさん食べるわけではなく、外貨を稼ぐことを目的として、そのトウモロコシを日本に家畜用飼料として輸出していたのです。
ですから、今晩、われわれ日本人が豚肉を食べれば、その豚はタイから輸入されたトウモロコシ食べ、そのトウモロコシは森林を食べていたのです。私たちの過剰なものに対する欲求が、途上国の人々をこのよう状況に追い詰め、結局、地球環境破壊が進んでいるのです。
 これと同じような話が、オーストラリア原産のあのコアラが食べる「ユーカリ」についても言えることです。ユーカリの木は、生育が早く、5年ぐらいで大きくなり、これを日本に輸出して、パルプ原料として紙になるのです。日本の2010年の統計でも、パルプ原料の6.1%は、タイから輸入されています。しかし、このユーカリの木は、成長が速いだけに土中の水分を急激に吸収し、土壌を破壊してしまいます。比較的古い植林地に行きますと、地割れ現象が見られるほど、環境破壊が激しい植生です。
ですから、われわれ日本人が何気なく毎日使っている紙も、地球環境と密接な関係にあるのです。彼らタイ人は、始めのうちは、政府がただでくれるユーカリの苗木を自分の畑に植えていましたが、その内土壌に甚大な影響があると知って、これを拒否するようになり、その後も強力に植林を進める政府に抗議すべく立ち上って、首都バンコクまでのデモ行進を試みたのですが、タイの機動隊によって道半ばで粉砕されています。
私はこのような事実を知って、われわれが紙を安く使うということが、タイ農民の犠牲の上に成り立っていると知りましたし、ましてや機動隊に粉砕されたということは、われわれの生活はタイの警官という「武力」によって守られているということを学びました。
 つぎに、ラオスのケースです。ラオスには豊かな森林生態系があるのですが、タイに進出している日本の自動車工場への電力供給のため、ダム建設が行われています。例えばトヨタの自動車は年間約1000万台ほど生産しているそうですが、その6割は外国で生産されています。201110月には、日本の自動車工場があるタイのアユタヤで大洪水が発生し、工場は大きな被害を受けました。それらの工場で使用する電力は、すべてラオスから購入しています。もちろん、電力がなければ工場は動きません。ラオスは渓谷が多く、ダムを建設しやすい地形です。そこで日本政府は、政府開発援助(ODA)によってダムを建設し、タイに進出した日本の自動車工業を助けているわけです。
 タイの日系自動車工場には、地方出身の労働者がたくさん働き、タイの最低賃金制度としての賃金、1日870円を受け取っています。これは、いうなれば日本の最低賃金制度による東京1時間当たりの賃金868円とほぼ同じであり、これほど安い給料によって日本の産業、言いかえれば私たちの生活が成り立っているのです。日本や先進国の企業は、どこもかしこも途上国の安い労働力を使って、その利益を享受しているのです。
 1987年、私は初めてベトナムとカンボジアを訪れました。今から30年ほど前です。日本国際ボランティアセンター(JVC)のメンバーの1人,熊岡路矢君が滞在しており、彼が僕にとって始めてのカンボジアを案内してくれました。その中で、僕に強烈な印象を与えたものの一つに、「虐殺記念館」と呼ばれる施設があります。ベトナム戦争が終焉した1975年から1991年のパリ和平協定までの約16年間、政権の座にあったポルポトは、隣国ベトナムでのベトナム戦争に対する恐怖にかられて、強力な富国強兵政策を進め、都市住民を追いたててコメの二毛作のための水路建設など、過酷な労働に従事させました。これに刃向うものは、逮捕・拷問・虐殺が繰り返えされました。そのなかでも首都プノンペンの郊外で約8000人のカンボジア農民が生き埋めにされ、その後その遺体を掘り出して陳列したのがこの虐殺記念館だったのです。この建物を見ると、おそらく誰でもアメリカ、ソ連、そしてアメリカに追従した日本など、大国による東西対立のはざまにあって、カンボジアの人々がいかに恐怖を襲われ、自制心を失っていたかを見ることが出来ます。
 このように、私は27歳の時、ガーナ大使館を訪ねて「あなたの国で働きたいのですが」と申し出て以来、約30年間、世界各地を放浪して開発途上国の人々の厳しい現状に触れてきました。これを皆さまにお話しているわけですが、この中で別な意味でも、エチオピアとソマリアにおける私の経験は、いろいろなことを考えさせてくれました。
 1984年、私はJVCの一員として、「飢餓の国」エチオピアに入りました。そのとき、エチオピアでは100万人以上の人が餓死したのです。われわれは、病院を作り、医師も派遣して救援に当たりましたが、われわれの病院でも5万人の人が来院し、5000人が入院し、500人の人が亡くなりました。日本から見ると地球の果てで起こる悲劇ですが、なぜ、このような悲劇が起こるのかを、考えざるを得ません。なぜ、エチオピアで餓死が起こるのか、その理由はいくつかありますが、エチオピアが高地に位置するという地形的条件、そしてそれ以上に大きな意味を持つのが、エチオピアも長くイギリス・イタリアなどによって支配され、植民地にされてきた歴史があるからだと考えていまず。
また、エチオピアの隣国ソマリアでも、同じような悲劇が繰り返されています。アフリカの国境は、1884年のベルリン会議などを通して西欧諸国によって分割、統治されたという悲しい歴史を持っていますが、これに起因して1983年、ソマリアではたくさんの難民が発生し、私たちJVCは8年もの間、その救援にかかわりました。昨今、ソマリアでは海賊が出没すると新聞を賑わせていますが、世界の大国にほんろうされ、最後は悔しい思いを込めて「海賊」をやらねば生きていけないほどにソマリア人を追い詰めてしまった責任は誰にあるのでしょうか。第二次世界大戦以後、深刻化したアメリカとソ連との対立、すなわち「東西対立」のさなかに、スエズ運河を通航するソ連の船を威嚇するために、アメリカがソマリアに莫大な金を落として、ソ連船を威嚇すべく基地を作ったのです。戦争と身に余るという不健康なお金により、伝統的なソマリア社会は破壊され、自制心を失ってとめどない混乱に陥ったのです。

3:このような世界の現実を、どう理解すべきなのか
 これまでお話ししてきたように、私は建築から出発して都市へ、都市のスラムから農村へ、農村の水問題から森林へといった、問題から問題へと渡り歩く人生を歩んできました。ある問題に直面しその解決を図ろうとすると、その問題の背後に新しい問題が見えてくるのです。問題を突き詰めることを繰り返し、最後は地球に至るという旅を続けてきました。
 結局、この「旅」で感じたことは、「先進工業国の都市の栄華は、途上国の農村に支えられている」という一言に尽きます。先進国の都市は、途上国の農村に咲く「花」ともいうべく、途上国の人々に支えられた栄華なのです。今、この会場である明治学院大学の10階にあるこの会場からの眺めは、大都市・東京を眼下にする雄大な眺めです。しかし、この風景は決して日本人だけの努力によって出来上がったものではありません。
そこで、今度は国と国との関係を冷静に見ていきましょう。国と国との関係、つまり「国際関係論」を論ずる時、私はすべての国や地域を四つに分けて考えています。それは、先進国と途上国、そして都市と農村という二つの要素によって作り出される四つの地域、すなわち「先進国との都市」、「先進国の農村」、「途上国の都市」そして「途上国の農村」の四つです。これを別な言い方で表現すれば、「中心の中心」、「中心の周辺」、「周辺の中心」そして「周辺の周辺」の四つであるともいうことが出来ます。

この図で特徴的なことは、森林の破壊や温暖化による海面の上昇などを考えると、地球環境破壊というのは、まず最初に途上国にやってくるため「地球環境」を「周辺の周辺」つまり途上国の農村の背後、あるいは右側に配置します。この「中心周辺理論」は、エジプトのサミール・アミン(Samir Amin, 1931-)氏などの「従属論」による考え方をもとに作成したものであり、先進国において普遍的理論とされるアメリカのウォルト・ロストウ氏(Walt Whitman Rostow : 1916 - 2003年)などの「発展段階説」に対峙する考え方です。
 地球環境問題も、日本では「温暖化」問題が最大の問題だと指摘されていますが、私はこれからの人類にとって最大の問題は、「温暖化」ではなく「砂漠化」の問題であると考えています。日本人は、熱帯林の森林が破壊されるのは、途上国の人の責任で彼らは環境保全について関心や知識がないからだと軽蔑しますが、これはとんでもない誤解です。彼らの森林が消えていくのは、先進国がそのように仕向けているからで、われわれは十分にそのことを自覚すべきなのです。
 国連の統計では、日本人は世界的に見ればかなりの金持ちです。日本の生活は日本人のみで作り出されたものではなく、途上国の人々と深い関係を結びながら達成されたものですが、一番深刻な問題は日本人にこの「自覚がない」ことです。つまり、十分な関係がありながら、「関係性」についての自覚がないことです。たとえば、ベトナムのマングローブ林を伐採して、そこに大きな池をつくり、そこでエビの養殖を始めます。5年ほどの間は、マングローブの林が持っていた養分のおかげで、エビが養殖され、日本に輸出され、われわれはそれを食べて楽しみます。ところが5年後、養殖池の養分は枯渇し、養殖が出来なくなり、その池はそのまま放置され、新しいマングローブ林が伐採されて新しい池を作るのです。これを、際限なく繰り返すおかげで、われわれは美味しいエビをエンジョイできますが、ベトナムではマングローブの林はすこしずつ亡くなり、環境は枯渇されていきます。

 このような関係があるにかかわらず、「ああ、美味しいエビだったね」と能天気なことを言って、「このエビがどこから来たのかなんて、関係ないわ」といった生活や思考に陥っている日本人をみると、やはりこれは相当危険な状態にあると言わざるをえません。これこそが、われわれの最大の病です。
 このような関係性を絵にすると右図のようになります。題して「途上国の人たちに支えられた大きなお盆で、楽しく語り合う日本社会の人々」。
これまでは、途上国の人との関係について述べてきましたが、今度は日本国内の関係性について少し述べたいと思います。日本には原発を抱える13県と米軍基地を抱える沖縄を加えると、日本の下支えしているのは福島・沖縄をはじめとする14県であるということができます。沖縄を別にすれば、原発を抱える13県は、先回の選挙ですべて自民党が勝利し、結局、原発抜きではそれらの県において生活できないという事実が浮かび上がりました。東京を支えてきたのは、いつもこの14県に含まれる青森、福島などの東北地方や新潟、福井など日本海側に位置する地域でした。これらの県は、戦前は兵隊と嫁、戦後は労働力と電力を東京または日本に供給し、世界における日本の国力増強に貢献してきたのです。したがって、東北の人には家族と離れて「出稼ぎ労働」などの悲しい歴史がたくさんあります。
 いま、世界には合計413基の原発があります。日本54基、一番多いアメリカは103基、2番目はフランスの59基、3番目が日本、次が韓国、ロシアと続きます。なぜ原発を持っているのか、もちろん電力供給という意味で所有しているのですが、それ以上に途上国を抑えつけるための武器、あるいは威嚇の象徴としても持っているといっても過言ではないでしょう。 
 原発が立地している福島の人、恩恵を受ける東京の人、さらにこれら日本全体を支え抑圧されている途上国の人。このように支配するものと支配される人、あるいは富めるものと貧しきものとの対立を南北問題といい、16世紀以来の西欧を中心とする奴隷制度や植民地政策に始まり、現代まで形こそ変わって来ていますが、連綿として続いています。ですから、この南北問題や地球環境の破壊の問題を考える時には、歴史を踏まえて「構造的」にその関係性をよく理解していかねばなりません。

4:これからの世界
 今、地球人口は72億人です。今後、2050年には中位推計で91億人になると予測されています。未来の人口推計には、諸般の学説がありますが、国連推計によれば西暦2100年、つまり今から87年後に人類は、総人口が100億から110億の間に達し、それ以後は下降をたどると予想されています。ですから、これからの87年間がもっとも緊張が高まり、困難な時代、不安の時代へと移りつつあるということが出来るでしょう。
 不安は、とりわけ都市内部で深刻になっています。自殺、殺人、いじめ、テロなどが、日常茶飯事、都市内部に忍び寄ってきています。人が人を信用できない状態です。たとえば、オサマ・ビン・ラディン、この人がニューヨークの貿易ビルを壊したといわれていますが、僕はこの事件を「途上国から先進国への反撃」、あるいは「農村による都市への反撃」と捉えています。テロとは、16世紀以来の西欧支配に対する怨念に基づく復讐であり、警鐘であると考えています。このオサマ・ビン・ラディンは、アラビア半島・イエメンの生まれで、私の先の定義に従えば「周辺の中心」つまり途上国の都市に住む人間です。自国の農村部を見ることもできれば、先進国の大学に進学して現代における「中心の中心」さえも十分に見渡せる位置にあり、世界の矛盾が見えやすい位置にいた人と理解しています。 
 このような不安を目の前にして、今後の世界を考えていくと、まず人々の「精神的な不安」と「物質的な不安」との二つがあり、いうなればこれを「内的な環境危機」と「外的な環境危機」の二つに分けて考えています。内的な環境危機の最大の問題は、「関係がありながら、関係の自覚ない」という人々の現状、私はこれは一種の「精神病」と考えていますが、「理解していること」と「事実」とが違うという状態であり。これでは健康な精神と肉体を維持できません。これは、ジークムント・フロイト(Sigmund Freud1856 - 1939)の言う「無意識の抑圧」と同じ現象で、自分では自覚しないがある種の病に冒されている状態を言います。この病を治すには、あくまで「現実」を正しく見るということが必要です。
次に、外的環境の危機ですが、これは普通、地球環境問題と言われている問題と同じで、砂漠化や土壌劣化、生物多様性の減少、温暖化による異常気象と過重な公共投資負担、度重なる原発事故、核戦争の危機など、枚挙にいとまがありません。
私は昔、都市計画が専門でしたが、都市はよく考えてみると、自分がよって立つ基盤といいますか、自分が支えられている環境が見えないよう見えないように作られているのです。また 私は今から5年前の2008年に、世界の都市人口が世界の農村人口を世界史上初めて上回ったという事実に注目しています。これまでのように先進国主導の世界経済を維持するためには、安手の労働力が欠かすことのできない大きな条件でしたが、これが段々と枯渇し始めているのです。いうなれば、消費する人口ばかりが増えて、生産する人間がすくなくなってきているということができるでしょう。
 安倍首相が進める「アベノミクス」をはじめとする新自由主義経済は、安手の労働力、すなわち途上国の農民をどう使うか、どう安く使って生産を効率よく挙げていくかに重点をおいています。そのため、安倍首相は二回目に首相になって以来、すでに途上国を含む50か国以上の国を訪問し、安手労働力の「掻き集め」に努力しています。
われわれが今生きている「資本主義経済システム」というのは、結局、強きものが弱きものを駆逐して、金銭的利益を拡大していくというシステムです。したがってこの間、「平等性」であるとか「福祉」だとかの人間性を尊重する政策を取っていけば、利益は少なくなり、人々の経済生活は厳しくなるというのが、この資本主義経済システムの本質なのです。したがって、もし資本主義経済システムを乗り越え、もう少し人間的な生活を実現したいと思うならば、「資本主義経済システム」とはいったい何のかをよく考え、その思想を歴史を遡って理解しなければなりません。

5:資本主義経済システムは、どこから来たか
 これまでお話ししてきたように、私は私の人生を通して、世界の過酷な現状の現場に立ち会い、どうしてこのようなことになってしまうのかを考えてきました。したがって、もしこれらの問題を克服して、世界の人々がもう少し安心して暮らすことが出来る世界を考えるとしたら、ただ反対したり、デモに行ったりするのではなく、その原因を深く考えねばならないと思うようになったのです。
 そこで、今の世界において支配的なシステム「資本主義とは何か」を考えてみましょう。それは簡潔に言えば、砂漠地域において道しるべとしての「星」が神になったという歴史を踏まえて、人間が「高さ」を求める社会、これが資本主義経済であると考えています。ピラミッド、教会、ロケットなど人より高みに登って神に近づきたいという欲求が、激しい「競争」を生み、「現代資本主義経済」を作り出したのだと理解するようになったのです。
 そのため、ここでは私のアフリカでの経験から、もう少し具体的にこの資本主義はどこからやってきたのだということをお話ししたいと思います。私は、先ほどお話ししたように2年ほどアフリカの密林地帯で生活しました。そこは、行けど行けど密林、遠くを見ることができません。小高い丘もなく、山もない。こういうところで2年間も過ごしますと、外界を見渡すことが出来ない「井戸の中」にいるような感じになります。自分が住んでいるところがどういうところか、客観的に見ることができないのです。
 私が住んでいた家の近所には、たくさんのガーナ人部落があり、そこから毎夜のごとく太鼓の音が聞こえてきました。妻と二人「なぜ、あんなに毎日、たたいているのかな」と不思議に思っていました。ところが、私たちも密林の中で2年も暮らしてみると、驚くことに私自身も無性に「地面を激しくたたきたく」なったのです。地面を叩いて「えいっ、俺も生きているんだ!」と表現したくなるのです。何か自分の生きている実感を確認したいのですが、地面を叩く以外に方法がないのです。したがって、太鼓はアフリカ人にとっては、実に必然的に生きる道具として生まれてきたのだと感じました。このように、ガーナ人の太鼓をたたくという「文化」は、その「自然環境」と密接につながっていると理解したのです。
 アフリカのガーナは、赤道直下にあり、海岸線はやや傾いていますがほぼ東西に走っています。赤道直下のため、太陽は常に真東から昇り、真上を通って真西に沈みます。したがって、ガーナの海岸に立つと、いつも海は光ることがないのです。太陽が海の方に傾かないので、船で海に出ない限り、海面が太陽に光るという風景をガーナ人は見たことがないのです。このことによって、僕は「複眼」、ものは地域によって常に「違って見える」ということに気付きました。
 このような経験をもとに今度は、砂漠地帯に生きる人々は、どのようなことを考え、どのような思いを持っていたのだろうと想像し、道案内となる地形地物がない砂漠では、「星」が唯一の道案内だと気がつき、その「星」が生死を分ける絶対な意味を持っていたがゆえに、その後、星が「神」に転化していったと考えたのです。その頃、鈴木秀夫という人が著した「森林の思考、砂漠の思考(NHK出版、1978年)」という本を読み、西欧文明あるいはキリスト教文明は、ヒマラヤ山脈の西、乾燥地帯であったインダス文明に発し、メソポタミア文明、エジプト文明、ギリシャ文明、ローマ文明、そしてヨーロッパ文明へと伝播していったという歴史を知りました。
 旧約聖書の最初の言葉「初めに、神は天地をお造りになった」という言葉は、実に高所から発せられた言葉、あるいは鳥瞰的な言葉であり、人間と星との関係を想起させたのです。ヨーロッパの人たちは、日々の生活の中で「おのれを、もっと高めたい」という欲求が、「神を信じ、神に近づきたい」という欲求になり、人々は必然的に「高さ」を求めたのです。ドイツ・ケルンにあるキリスト教大聖堂は、1248年に建設が始まり、実に600年以上の年月を経て完成されましたが、高さは157mもあり、人々がいかに高さを求めたかを如実に表しています。
 しかし、この高さを求める願望は、人類に多大な恩恵をもたらしたのです。それは1637年、フランス生まれのルネ・デカルト(René Descartes1596-1650年)が地球上のすべての空間、宇宙までのすべての空間を測定し、その位置を特定できる「三次元座標軸」を考案したのです。これこそが今日、私たちが使い慣れているコンピューターをはじめとする近代科学技術を生み出したのです。この近代科学技術なくして、現世界人口72億人は生まれもせず、生きることもできなかったというほどに重要な意味を持っています。
スペインのバルセロナにアントニ・ガウディ(Antoni Gaudí1852 -1926年)が設計したサクラダ・ファミリアという教会がありますが、この建物もまさに「高さ」を求めたのです。「高さ」を求めるということは、今では全世界を覆うことになった西欧文明、あるいはキリスト教文明の「根源的な価値」なのです。ですから、バベルの塔、ピラミッド、教会、そして都市、さらに個人主義や資本主義経済システムまで、全て同じ「高さ」を求める思想に由来しているのです。
皆さんもご承知のように、「都市」も高さを求め、高さを競っています。資本主義経済システムも、たとえば昔、自動車好きのアメリカにはフォード自動車以後、600社も自動車製造会社があったと言われていますが、合併や吸収を繰り返し、今ではわずか三社に統合されてしまったといわれています。つまり、資本主義とは、常に「高さ」と「大きさ」を求める競争なのです。

しかし、ここで注意しなければならないのは、キリスト教文明には致命的といっていいほどの欠陥があることです。それは、キリスト教文明による他国への「侵略」と「略奪」の歴史です。神を信じ、その神の傘の下にいる「同胞」については、こよなき愛をそそぐのですが、その傘を外れる「異教徒」、「異邦人」には弾圧と殺戮を繰りかえしてきたのです。1492年、アメリカ大陸を発見したクリストファー・コロンブスChristopher Columbus1451-1506年)は、アメリカ先住民に対する拷問、強姦、大量殺人、窃盗、文化破壊によって、にわかには信じがたい罪を犯しています。左の絵は、「WANTED」、コロンブスがお尋ね者として描かれたポスターです。
このように「資本主義経済システム」の長所と欠点を見てきましたが、さらに深く考えなければならないことは、資本主義経済システムも「人」によって作り出されたというより、その思想が生まれた土地の「気候風土」に起因している、あるいはその気候風土によって作り出されたということを、しっかりと理解しなければなりません。人を怨むのではなく、その背後の条件を考えるべきなのです。
資本主義経済システムやキリスト教的価値体系は、ヒマラヤ以西の「乾燥地帯」で生まれたと、さきほどお伝えしました。インド北部に位置するヒマラヤ山脈は、インド洋からの季節風を受けてたくさんの湿気が滞留し、これが地球の自転に伴う「偏西風」によって東に吹き飛ばされて、高温多湿のモンスーン地域をつくり出します。そのためヒマラヤの反対側の西、今のパキスタンやアフガニスタン周辺では、乾燥が進んで砂漠を作り出すのです。このため日本を含むアジア・モンスーン地域では、多量な水を必要とする「米」が主食になり、ヒマラヤの西側では乾燥するため、「小麦とヒツジ」が主食となりました。
このように世界を二分する文明は、ヒマラヤという地球が持っている空間的条件によって生み出されたと考えられますが、それではヒマラヤの東側、つまり日本を含むモンスーン地域の文化について考えてみましょう。
モンスーン地域であるアジアは、西側の乾燥地域に比較して、圧倒的に水が豊かであり、したがって自然、そしてその生活も豊かであったと思われます。これを踏まえて、私は星を目指した西欧の文明を「垂直の思想」、そして自然豊かな東洋の思想を、生きとし生きるものすべて「繋がっている」という理解から「円環の思想」と呼んでいます。紀元前8世紀に生まれたお釈迦さま、すなわちその後悟りを開いた「仏陀」は、「すべては繋がっている」という思想、すなわち現代でいうところの「生態系」というシステムを見出し、いかなる生命も尊重せねばならないと説きました。ここが西欧の思想と異なるところであり、これからの地球時代を考えると、同じ地球を共有して生きていかねばならない人類にとって、実に大きな教訓を含んでいると思います。
しかし同時に、この東洋思想も「円環」であるが故に、欠点を持っており、個人を押し潰す封建制、閉鎖性の危険を孕んでいるのです。このことを如実に表しているのが、日本における「田越し水田」というコメ作りの方法で、常に一段上の田から水を導き、一段下の水田に水を流すという方法が、自分だけ抜けることが出来ない「全体性」を作り出し、個人を縛りつけます。これを抜け出すと村八分となり、生きていくことができないという封建社会を作り出したのです。これは一般に「和の思想」と呼ばれるもので、日本文化の特徴となっています。
 
6:これからの未来にどのような希望を託すか
 さて、それでは最後に、以上のような理解を踏まえて、今後どうしていけばよいかについて考えたいと思います。今、私たちが頼りにしている現代文明は、高みに登るという思想において、かって世界各地に存在した「先住民文化」を駆逐し、世界制覇を成し遂げました。「開発:development」という概念が是認され、地球制覇に向けて各国がしのぎを削っています。
 したがって、これからの社会を考える時、一方ではこの思想を尊重しながらも、これからの地球破壊を避ける意味で、もう一つの思想、円環の世界との「融合」、統一を考えなければなりません。
 ここに二枚の写真があります。その一つ、左の写真は、先に述べたケルンの大聖堂であり、右は長野県の戸隠神社奥社参道です。

この二枚の写真は、同じように左右両側に高い列柱が並び、同じような様相をしていますが、その思想的な背景はまったく異なります。教会は「天」を目指しており、参道は「奥」を目指しているのです。奥とは、ある種の「過程」あるいは「途中」であり、未知を目指しています。人生流転、「円環」の過程とも考えられます。
   これからの地球時代はこの天と奥、この二つの思想の融合点を目指さねばならないと思うのです。それでは皆さん、この天と奥、あるいは垂直と円環を融合するとどのような「空間」が現れるといますか。それは、螺旋(らせん)なのです。「競争」と「共存」とを同時に可能にする道、それが螺旋であり、これからの人類にとっての道しるべです。
ニューヨークに「グッケンハイム美術館」というアメリカの建築家フランク・ロイド・ライト(Frank Lloyd Wright1867-1959年)が設計した建物があります。この建物は、「らせん」状の構造をしています。螺旋というのは、一人だけ抜きんでない、皆とともに歩むということを意味し、円という「空間」と垂直という「時間」を組み合わせたものともいうことが出来るでしょう。来年になると一段這いあがるのですが、やはり同じ場所に戻ってくるのです。無限の開発を続けて、地球を壊してしまうのではなく、全世界の人々が互いに手を携えて進んでいきましょうという意味でもあります。
この螺旋の思想を、私たちの具体的な生活に置き換えてみると、それは次の言葉で表現できると思います。それは、地球に生きる一人の人間として、「心を地球化(Globalization)し、身体を地域化(Localization)しよう」ということです。あるいはまた、次のように言うこともできるでしょう。すなわち「日本の各地域は、国家の枠を超えて途上国を含む海外の「地域」の人たちと積極的に交流を行い、地球人としての自覚を高めていく。また、市民が自立的な生活を営めるように、生活に必要な基本的条件、すなわち食料・水・エネルギー、そして廃棄物循環の四つを、外国や他県の人々に迷惑をかけることなく、地域内自給を目指して政策立案を行い、地域自治を実現していく」。
 これには、誰でもが「自分で食べるものは、自分でつくる」という「半農半X」の生活を目指すべきと思います。私自身、10年前に茨城県に引っ越し、少しばかりのコメを作り自給してきました。やはり、自分で食べるものは自分でつくって、少しでも途上国の人びとに迷惑をかけないようにしたいと思います。農地へのアクセスが難しい東京のような大都市は、いずれ崩壊するのではないかと考えています。
 これからの地球時代を健康に生きるためには、外からの資源を頼りにするのではなく、自分の地域内にあるあらゆる人的・物的資源を掘り起こし、地域が持つ「内的な力」をより発揮できるように、工夫を重ねていく必要があります。内的な力を掘り起こす。このことは、教育においても、医療において、街づくりにおいても必要なことです。自分の地域に誇りを持ち、それを育てていくことが大切です。
 ありがとうございました。これで終わりです。