2015年5月26日火曜日

適正技術・代替技術・中間技術について


われわれは、生きながらにして地球を殺そうとしている。先回の投稿で述べた、この絶対的な「矛盾」とも言うべき現代にあって、どう生きるか、あるいはこの「矛盾」をどう克服するかについて今日は考えてみたい。誰でもが「自分も生き、地球も救いたい」と望んでいる。そこに登場したのが、1973年に刊行されたドイツ生まれのイギリス経済学者「エルンスト・フリードリヒ・シューマッハー(Ernst Friedrich Schumacher, 1911-1977)」の著「スモール・イズ・ビューティフル」である。彼は、環境にやさしい伝統的地域技術を「1」とし、環境破壊的近代技術を「1000」として、その中間たる「100」の技術、すなわち「中間技術(Intermediate Technology)」をこれからの地球時代、推進していかねばならないと説いたのである。
これに触発されて、翌年の1974年にはデイビッド・ディクソンの「代替技術(Alternative Technology)」、そして1976年にはニコラス・ジェキエらの「適正技術(Appropriate Technology)」が出版され、地球とわれわれの存在との矛盾を解決しようとする「技術論」が提唱された。技術論と言っても、この世の事象を多面的に捉えて政治的、経済的、社会的、文化的な思考を重ねて、永続的な社会を作り出そうとする思想である。日本においては、この「中間技術」、「代替技術」、「適正技術」という三つの言葉の内、「適正技術」という言葉が一番多く使われているが、この三つの言葉は少しずつその力点が違うとはいえ、ほぼ同じものと解釈していいと思う。
それでは、その内容とは何か。「適正技術」は、まず、地球を壊さないように環境への負荷を出来るだけ少なくしようとする。地域の資源を大切にして、繰り返して使う努力をする。次に、それぞれの地域にはその地域特有の社会組織があるので、その社会組織が新しい技術の導入によって混乱に陥らないよう時間をかけて「社会と技術」とのバランスある成長を尊重する。第三に、出来る限りの市民参加、自発的市民参加を目指す。人の命令によって自分の役割を決めるのではなく、市民の自発的創意工夫によって社会を作り上げていく。恐らく、この三つが、適正技術の基本的な性格であり、具体的にはあらゆる分野において地球への負荷を少なくしようとする試みがなされている。自然エネルギー利用、有機農業、東洋医学、環境建築、都市と農村の共存を模索する田園都市構想、資本の移動によって巧みに法の網をすり抜けようとする多国籍企業に対して課税していくドービン税など、数多くのアイディアがすでに考案され、その大規模な実施が期待されている。

 
しかし、これがうまくいかないのだ。これだけのアイディアが目の前にあるのに、共存より競争、いうなれば社会的注目を浴びることなく、「大資本」に群がる構造が際限なく繰り返えされているのだ。環境破壊が進み、格差が高じて「戦争」になっても、人々は地球を大事にするより破壊への道を進む。一つの例を紹介したい。これはずっと前に一回紹介したと思うが、ある日僕はアフリカ行きの飛行機に乗ったら、隣にウガンダ人と乗り合わせた。彼は、「日本でリヤカーを買ったのですよ、農業をやっているお母さんがどんなに喜ぶか」とうれしそうに話す。未だ農業が中心産業であるウガンダの農家一軒一軒にリヤカーを贈呈したらどんなに喜ばれるかと想像がつく。しかし、日本政府は農業援助と称して「トラック」一台を贈呈するのだ。すると、それまで貧しいとはいえ、皆それなりに仲良くやっていた村社会は、トラック一台をどう使うかで「もめ事」になり、伝統的な村の社会組織が壊れていく。日本政府はこのことが分かっていながら、日本の産業育成と称して、リヤカーではなくトラックを贈る。これが、適正技術とそれを支える村社会を破壊する典型的な例である。このようにして、適正技術ではなく巨大技術が優先的に進行していくのだ。
つまり、こうすればいいと分かっていながら、より儲けたいという「強欲主義」が世を破滅に追い込んでいる。資本主義社会とは、そうゆう社会なのだ。だから、なにもすることができず、ただ死にゆくものを供養するような状況に追い込まれるのだ。
それでも、僕らとしては適正技術をはじめとして、環境と共存できる具体的な方法を推し進めるべく努力しなければいけないと思う。写真は、典型的な適正技術「フィリピン・コルディリェーラの棚田群」