2012年7月31日火曜日

意味の世界



人間が見ている外界とは、外界そのものではなしに、外界の中のわれわれの<意味>である。<意味>で形作られた世界だけが、唯一われわれの生きている現実に他ならない。(Jokob von Uexkul (1864-1944) 「生物から見た世界」より)
私が道を歩いているとき、突然犬が飛び出し、激しく吠えたてたので、とっさに道端の石を拾い犬に投げつけた。この時、その石は、突然、私の「意味の世界」に入ってきたのだ。さもなくば、その石は、永遠に私の意識の外にあって、その存在さえ気がつくことがなく、まったく「存在しない」に等しかった。

 人は、五感を通して対象を「認知(perception)」し、それをイメージとして頭脳に「蓄積(file)」し、そのイメージを操作して「思考(consideration)」をめぐらし、そのイメージを結合して「創造(creation)」する。人は、イメージに沿って「行動(action)」し、イメージを互いに交換して「コミュニケーション(communication)」を行う。
 人の人としての中枢に「イメージ(image)」があり、お互いのイメージを確認することによって「共感(sympathy)」する。人は、形、色、音、味、匂いなどの「物理的環境」を認知し、その認知した内容を人と交換して「社会的認知」を行い共感し、否認する。このようにして、この人の「意味の世界」は広がり、他の人と緩やかに交換、交差しながら、同じように外界を認知するに忙しい「ネコの環境世界」や「鳥の環境世界」と楽しげにふれあいを重ねていき、全体がスパイラルに展開していく。
 

二つの異なる自然環境


インド洋からの風がヒマラヤ山脈にぶつかり、これが西からのジェット偏西風に乗って、ヒマラヤの東にモンスーンによる湿潤地帯を、ヒマラヤの西に乾燥地帯 をもたらし、東の湿潤による「米」、西の乾燥による「小麦と羊」を生みだしたのである。

イメージの獲

この絵は、有名な「ルビンの盃」という絵であるが、「二つの顔」を見るのか、あるいは「盃」を見るのかを、自ら決めて見るとそれが見えるのであって、瞬時に切り替えることはできても、同時に両方の絵を見ることは、何回試してもできない。つまり、「見ようとするから、見えるのである」ということを証明するために、ここに掲載した。「イメージ」が先行し、「イメージ」通りにコトやモノが現れる。だから逆にいえば、「イメージ」がなければ何も見えない。この絵は、私たちにとって「イメージ」がどんなに大切かを教えてくれる。

見ようとするから、見えるのであって、
聞こうとするから、聞こえるのであって、
なにごとも向こうから飛び込んでくるわけではない。
したがって、見ようとし、聞こうとしなければ、
決して何も見えず、何も聞こえてこない。

小さな小さな赤ん坊が、仰向けにベットに寝ているときに、
右手にガラガラを持って、赤ん坊の目の前に差し出し、
ガラガラいわせながら、
そのガラガラをだんだんと動かして自分の背中に隠し、
今度は、そのガラガラを左手に持ち替え、
さらにその左手をガラガラと動かしながら、
再び赤ん坊の目の前につきだすことを数回、繰り返すと、
いつの間にか赤ん坊は、
隠したガラガラが左手から出てこないかを、
自ら目を動かして「待って」いるようになる。

この時こそ、赤ん坊はすでに「イメージ」を獲得し、
その「イメージ」に沿って、
自ら目を動かすという「行動」に出たのだ。

若者よ、「イメージ」を獲得して「行動」に出よう!

人間と環境


 人はなぜ、自分の環境を破壊するのか?
 
  それは、なぜか、人々の心がそうさせているのだ!
 
・環境破壊の根本的な原因は、地球上の富める者と貧しきものとの対立、つまり南北問題
  にある。  

・途上国の人々は、物質的に窮乏し、追い詰められて自らの環境を破壊する。
 
・先進国の人々は、たとえ無意識にしても、人を痛みつけることによる精神不安から際限
  のない物質消費へと走る。心の隙間を、モノで埋めようとするのだ。(注) 

・人をいじめること、人の仲を裂くこと、平和を乱すことは、最大の環境破壊。

・平和な社会を作ること、人と分け隔てなく接すること、これが最大の環境保全。 

                                                              
(注)人類は、生態的 にひとつである。したがって、人類や他のすべての生き物は、互いに心で結びついている。 しかし、今、不幸なことに人類は南北(先進国/途上国)二つに分断されている。 先進国に住む現代人の精神不安は、フロイト(1856-1939) のいう「無意識の抑圧」、あるいはベトナムで戦ったアメリカ軍兵士が陥った「PTSD/心的外傷後ストレス障害」と同じ病である。

原発をどうやって止めるか!




  僕は、世界の中で日本経済を維持し動かしていくに必要な総エネルギー量は、日本国内で4割、そして中国やタイ(例えばメコン川に連なるODA出費で建設されたダムによる水力発電など)で調達され、海外の日本工場を動かしているエネルギーが6割前後と考えているが、日本国内の原発を止めるということは、かって国内の公害工場を海外に輸出していったように、海外諸国に原発を押しつけることになりかねない。
 そこで、日本国内の原発廃止の運動を進めると同時に、どうしても市民による国際連帯が必要になる。韓国が今後原発輸出を続けるということは、かって日本人がチェルノブイリ事故を他人事としか理解できなかったように、韓国人も彼らにとってこんなにも近い日本での事故を、自分の問題として理解することができないのだ。
 資本は、安い労働力と尽きないエネルギーを求めて、やすやすと国境を越えていく。僕に言えることは、以上のことを踏まえつつ、運動を進めないと原発を潰すことはできないのではないかということだ。

原発と南北問題



私は、つい最近、次のようなお便りをもらいました。
「私は、311までの無知を悔いています。無知を恥じると同時に、無知であることは罪深いとも思っています。原発については、事故が起こってから危険を知るのでは取り返しがつきません。」
そして、続けて次のように言われます、「正直に言うなら、岩崎さんのいう南北問題もまた、私の未だ見知らぬ問題です。南北問題については、私のこれまでの生き方の中からは、アタマで理解できたとしても実感をともなうまでには至らないのです。これを「知る」とき、知らずにいる現在のことを悔いることになるのかもしれません。」

私は正直、このように言われる方に対して、心底頭が下がるし、また心底、勇気をもらいます。「原発」があるのは、「南北問題」があるからです。これ以外、何物でもありません。「南北問題」を解決しなければ、「原発問題」を解決することはできないのです。決して「原発」が先にあるのではなく、これは、あくまで支配する手段なのです。開発途上国にはいまだ大きな富が眠っており、それを利用したいのです。原発反対を推し進めていくのに障害となるのは、日本人すべて大なり小なり、この途上国を利用した利益に既にあやかっているし、今後もそれを捨て去ることが難しいからです。

しかし、不幸なことに、この方が言われるように、先進国人、つまり、日本人、アメリカ人、イギリス人、フランス人などの先進国人は、「頭では理解し得ても、実感を持っては理解できない」のです。それは、あたかもかって民主政治を作り出したといわれる古代ギリシャ人が、眼の前にいる人間を「奴隷」としか理解できなかったように、先進国人にとっての「開発途上国人」は、奴隷としてとまでは言わないものの、少なくも「人間」としては理解できないのです。ここが最大の問題です。この人たちと関係のない毎日の生活を送っておられる方なら、何をかいわんやですが、現代先進国人は今日食べたもの、今日着たもの、今日排泄したもの、あらゆる意味で深い関係がある海を越えた途上国の人々を、「人間」として認めていないのです。
このことは、この方が言われるように、あとになって明らかに「悔やむべき」問題です。きつい言い方ですが、あとになって「恥じ入るべき」問題です。
この問題に対する解決方法は、以下の二つであり、これ以外の解決方法はありません。一つは、途上国に行って、原則として英語を話す人ではない、普通の人々とできるだけ会うこと、たとえ言葉を交わすことができずともニコニコと笑顔を交わすこと。(精神循環の拡大)もうひとつは、自分の食べるものは、たとえほんの少しでも自分で作ること。(物質循環の縮小)このように努力すれば、かならず、わずかな光が見えてくると思います。
参考になる本として、筧次郎著「自立社会への道」発行:新泉社